劇作家清水邦夫

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『わが魂は輝く水なり』墓碑銘

『わが魂は輝く水なり』と刻まれた墓碑のもと、劇作家 清水邦夫は令和3年(西暦2021)初夏、眠りについた。墓碑の文言は1980年の邦夫の作品名で、できすぎではあるが本人もそれを自覚していたようである。

70年代、邦夫の父・鉄五郎の墓選びに同行させられた邦夫は、桜の若木の下の区画を選んだ父を「いささか芝居がかっているなあ…」と思い苦笑いしたようであるが、のちに心地よい木陰を作り出す墓前で、父親の選択に敬意を表した。自らの墓碑文を選ぶ際にも「芝居がかった親父の墓のことを笑えたものではない…。」と語っている(文学者の墓は、自作品のタイトルをひとつ刻む事ができる)。「自分の作品名は長いものが多く、短いものは墓碑に刻むと、たちまちパロディになってしまう」とは本人の弁。邦夫のぎりぎりの選択に敬意を表したいと思う。


鉄五郎の桜の木は今はもうない…。
清水邦夫の数ある作品も海に注ぐ流れのごとく、やがては大海に溶け込むだろう。そんな摂理を受入れつつ、清水邦夫作品をより多くの方々に観ていただき、演じていただきたい。そのような想いでこのサイトを開設した。

清水邦夫作品の上演情報

清水邦夫略歴

1936年
11月17日、新潟県新井市(現・妙高市の一部)で、警察官の父・鉄五郎、母・常子の三男として誕生。
1943年
新井小学校入学
1949年
新井中学校入学
1952年
新潟県立高田高等学校入学。
1956年
早稲田大学文学部美術科入学。長兄と東中野の下宿に住む。
早大在学中の長兄は小さな学生劇団を主宰しており、少なからぬ影響を受けた。早大舞台美術研究会に入る。
1958年
文学部演劇科に転科。在学中に執筆した、処女戯曲『署名人』で早稲田演劇賞とテアトロ戯曲賞を受賞。
1959年
劇団青俳に戯曲『明日そこへ花を挿そうよ』執筆。
自作が初めて上演され、この作品には蜷川幸雄氏らが出演。
1960年
早稲田大学文学部演劇科を卒業。
岩波映画社へ入社、企画脚本課に配属。記録映画などのシナリオを執筆。
1965年
岩波映画社を退社してフリーランスになり、本格的に劇作家への道を歩む。
特に1960年代後半から演出家蜷川幸雄氏とのコンビによるアートシアター新宿文化公演は新世代の圧倒的な支持を得る。
1966年
田原総一朗氏、作家・内田栄一氏とドキュメンタリー・グループ(ドキュメンタリー5)を結成
1971年
戯曲『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』執筆。現代人劇場によりアートシアター新宿文化で上演。
第二戯曲集『想い出の日本一萬年』を中央公論社より刊行。
初めて自作・自監督の映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』を田原総一朗氏と共同製作。
1972年
戯曲『ぼくらが非情の大河をくだる時』執筆。現代人劇場によりアートシアター新宿文化で上演。
蜷川幸雄氏、石橋蓮司氏、蟹江敬三氏らと〈櫻社〉を結成。
1973年
『泣かないのか?泣かないのか一九七三年のために?』執筆。
櫻社にてアートシアター新宿文化で上演。櫻社解散。
1974年
戯曲『ぼくらが非情の大河をくだる時』が、第18回岸田國士戯曲賞受賞。
第三戯曲集『ぼくらが非情の大河をくだる時』刊行(新潮社)。
エッセイ・評論集『われら花の旅団よ、その初戦を失へり』刊行(レクラム社)。
1976年
山崎努氏、大橋也寸氏、妻である女優 松本典子、と演劇企画グループ《木冬社》を結成。
第一回公演『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』を上演。第11回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞。
この後も、木冬社を中心に新作を発表するだけでなく、俳優座、民藝、文学座などに書下ろしを提供。
また、戯曲のほかにも小説、エッセイなどもてがける。
1977年
戯曲『楽屋―流れ去るものはやがてなつかしき―』を発表。
木冬社第2回公演として渋谷ジァン・ジァンで上演。(現在でも数多く上演され続けている代表作)
第五戯曲集『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』刊行(講談社)。
1978年
12月、戯曲『火のようにさみしい姉がいて』を発表。
木冬社第3回公演として紀伊國屋ホールで上演。木冬社は同人制を廃し、清水邦夫と松本典子が残る。
1979年
第二評論集『ほほえみよ、流し目の偽彩よ』刊行(レクラム社)。
戯曲『戯曲冒険小説』発表。文学座アトリエにて上演。芸術選奨演劇部門・新人賞を受賞。
1980年
戯曲『わが魂は輝く水なり―源平北越流誌』を発表。劇団民藝にて上演。
第六戯曲集として講談社より刊行。第8回泉鏡花賞を受賞。
この年の一連の演劇活動で、第8回テアトロ演劇賞を受賞。
1981年
ラジオドラマ『洞爺丸はなぜ沈んだか(原作・上前淳一郎)』執筆。芸術祭優秀賞を受賞。
戯曲『あらかじめ失われた恋人たちよ―劇篇』を発表。
渋谷ジァンジァンで『清水邦夫作品連続公演』開催。
『夜よ おれを叫びと逆毛で充す 青春の夜よ』『狂人なおもて往生をとぐ』『戯曲冒険小説』『楽屋』の4作品。
1982年
戯曲『雨の夏、三十人のジュリエットが還ってきた』を発表。9年ぶりに蜷川幸雄氏の演出により、日生劇場で上演。第三評論集『火のように、水のように』刊行(レクラム社)。
1983年
戯曲『エレジー ―父の夢は舞う―』を執筆。劇団民芸により宇野重吉氏主演で上演。
第三十五回読売文学賞を受賞。
1984年
戯曲『タンゴ・冬の終わりに』を発表。蜷川幸雄氏演出でパルコ劇場にて上演。
ロンドンのウエストエンドで、名優アラン・リックマン主演により上演される。
1985年
戯曲『95kgと97kgのあいだ』を蜷川幸雄氏演出にてベニサン・ビットで上演。
エッセイ集『月潟村柳書』刊行(白水社)。
1986年
戯曲集『花のさかりに死んだあの人』刊行(テアトロ)。
戯曲『夢去りて、オルフェ』を発表。紀伊國屋ホールで上演。(木冬社公演)
1987年
戯曲集『幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門』刊行(レクラム社)。
戯曲集『狂人なおもて往生をとぐ―昔、僕達は愛した』刊行(新水社)。
戯曲『戯曲推理小説―ローズマリーの赤ん坊のように―』を発表。パルコ劇場で上演。(木冬社公演)
1989年
戯曲『たそがれて、カサブランカ』を発表。パルコ劇場で上演。
戯曲『恋愛小説のように』を発表。紀伊國屋ホールで上演。(木冬社公演)
1990年
初の小説集『冬の少年』刊行(講談社)。
戯曲『弟よ―姉、乙女から龍馬への伝言―』を発表。紀伊國屋ホールで上演。(木冬社公演)
第41回芸術選奨・演劇部門・文部大臣賞(演出)、第18回テアトロ演劇賞を受賞。
1991年
戯曲『哄笑―智恵子、ゼームス坂病院にて―』を発表。パルコ=スペースパート3で上演。(木冬社公演)
1992年
戯曲『冬の馬』を発表。シアターXで上演。(木冬社公演) 『清水邦夫全仕事1958~1980上・下』、『清水邦夫全仕事1981~1991上・下』、全4巻を河出書房新社より刊行。
小説『華やかな川、因われの心』刊行(講談社)。第43回芸術選奨文部大臣賞を受賞。
1993年
『愛のかたちを探る週末の一幕劇集III』を演出。木冬社にてシアターXで上演。
戯曲『血の婚礼』が蜷川幸雄氏演出で銀座セゾン劇場にて上演(再演)。
小説『風鳥』刊行(文藝春秋)。
1994年
多摩美術大学 造形表現学部映像演劇学科教授に就任
木冬社・シアターXカイ提携公演でアゴタ・クリストフ作『悪童日記』を劇化・演出。
戯曲『わが夢にみた青春の友』を発表。紀伊國屋ホールで上演。(木冬社公演)
第29回紀伊國屋演劇賞・団体賞を受賞。
エッセイ集『ステージ・ドアの外はなつかしい迷路』刊行(早川書房)。
1997年
村上龍原作『昭和歌謡大全集』を劇化。 蜷川幸雄氏演出で銀座セゾン劇場で上演。
2000年
『恋する人びと―軍都とダンディズム―』を発表。紀伊国屋サザンシアターで上演。(木冬社公演)
2001年
シアターXで『女優N―戯曲推理小説―』を上演。(木冬社公演) 戯曲の執筆は、妻・松本典子の引退公演となる本作品が最後となったが、 その後は旧作を松本典子との共同演出で上演を続ける。
2002年
紫綬褒章受章
2003年
シアターX・木冬社提携公演「イエスタデイ」上演。
この作品はのちに『悲劇喜劇』第74巻(2021年9月号)『追悼 清水邦夫』に掲載。
2007年
多摩美術大学教授を退職
2008年
旭日小綬章受章
2021年
4月15日 老衰のため死去。享年84歳。 墓碑銘「わが魂は輝く水なり」

発表戯曲一覧

作品名

初演

劇場


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